あくびクラブのブログへようこそ
このブログでは、つれづれなるままに、心に浮かぶ他愛無い事柄を取り留めもなく書いて参ります。ある意味、はた迷惑な話なのでありますが、一方で私の脳を活性化するという重要な意義が隠されておりますので、お付き合い頂ければ嬉しいです。
ところで、ご承知の通り「つれづれなるままに」は兼好法師の『徒然草』の冒頭ですが、ふと、この何気なく使った「つれづれなるままに」とはどういう意味なのかという疑問が生じたのであります。
まず、うっかり『古語大辞典』(小学館)を開いたところ、「つれづれ」*1の項目に、こと細かく用例を引きながら、解説がありました。あまりの詳しさに卒倒しそうになりましたが、なんとか持ちこたえました。残念なことに「つれづれなるままに」という項目はありませんでした。
こういうときは、やはり注釈書をひもとかねばなりません。ちなみに私は、「心のおもむくままに」ほどの意味と思っておりましたが、これは見当違いであることが、下記を読むとわかります。
「つれづれなるままに」の『徒然草』諸本における解釈・解説例
することのないものさびしさにまかせて。(左注)
『岩波文庫』
手持ち無沙汰で所在ないのに任せて。(脚注)
『岩波 新日本古典文学大系』
なすこともなくまた話し相手もいない状態。(本文左注)
無聊*2孤独であるのに任せて (現代語訳部分)
『角川ソフィア文庫』
これらの情報だと「つれづれなるままに」は、「ヒマなので」と言うことになりそうです。この辺りで、既に、私の見立てが全然違うと分かってきました。ほかの注釈書も参照してみます。
この場合の「つれづれ」は、仏道にも歌道にも読書にも身がはいらず、空無*3のもてあましている状態をいうのであろう。(頭注)
『新潮日本古典集成』
この頭注を読むと単に「ヒマなので」というよりは、「することはあるのだが、なにも手につかず虚しい思いを持て余して」といった雰囲気かと思われます。しかし、「虚しい思いを持て余して」というと、なにか引っ掛かりますね。
そんな感じで『徒然草』を書いたの?
しかし単に「ヒマなので」というのも・・・
そういう違和感を解消してくれるのが、橋本治『解説 徒然草』の解釈です。
身も心も十分なゆとりがあるものだから、(通釈部分)
身心ともに余裕のある状態。「ままに」は「がゆえに」と同意で、原因・理由を示す接続助詞と考えてよい。(左注)
ただ今度は、思い切りよくポジティブに振れすぎなように感じます。
そこで、振り出しに戻るような気持ちで、手元にある高校古文の参考書を見ると、次のように書かれていました。
(つれづれなりは)「退屈だ」という解釈だけではすまされない。それは、閑寂な境地と、主体的に生きる自由な時間の保持とを意味するものであった。
『シグマベスト理解しやすい古文』
・・・なにやら大げさでもありますが、トータルで見ると『新潮日本古典集成』『理解しやすい古文』の辺りが正解かな、否、正解であって欲しいと私は思います。
ともかく、「つれづれなるままに」は「心のおもむくままに」という意味ではないらしい、ということは分かりました。
でも、このブログでは「心のおもむくままに」を基本に、綴って参ります。
また「ヒマなので」書くわけでもありません。兼好法師の時代よりも忙しいのです!
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最後まで読んで頂いてありがとうございました。
引き続き、よろしくお願い申し上げます。
では、また!